イスラームは 厳しくない 難しくない
イスラームは厳しくない
日本人の間でよくある誤解は『イスラームは厳しい』とか『イスラームは難しい』といった認識である。
僕もムスリムになる前はそう思っていた。
でもそんな事は全然なかった。
確かに礼拝や斎戒(断食の義務)があったり、してはいけない行為、食べてはいけない物があったりして窮屈そうに見える。
だから殆どの人がイスラームに興味があったりムスリムに憧れていてもそこで諦めてしまう。
仮に入信したとしても、実践ができないことで『自分はダメだ』とか面倒になって離れてしまう。
前にも言ったが、僕は興味のない人を無理矢理イスラームに誘う気はさらさらない。
この記事も興味がある人や、本気で求めている人に向けて書いている。
興味がなかったり、イスラームが嫌だと思うならこれ以上読み進む必要はないし、時間の無駄なので自分の好きな事をしている方がいい。
しかし、せっかくイスラームの門を叩いても、『難しい』『厳しい』といった理由で諦めてしまうのはもったいない。
だから最初の疑問にお答えしよう
イスラームは難しくないし、厳しくないのである。
何故か?
ムスリムであるための最低条件は意味が分かろうが分からまいが、『アッラーのほかに崇拝に値するものがないことと、ムハンマドはアッラーの使徒である』を信じ、宣言するだけでよいからだ。
それさえ信じていれば、あとは例え礼拝していなかろうが、お酒を飲んでいようがムスリムはムスリムである。
では、義務である礼拝や斎戒はしなくても良いのか?
僕はこの『義務』という訳語も適切ではないとおもっている。
近代の国家が定める『国民の義務』とは全く性質が異なるからだ。
イスラームにおける礼拝や斎戒は誰からも強制されない。やるかやらないかは自分が決めることである。
それを判断するためにはやった時のメリットとやらないことによるデメリットを考えればよい。
『でも忙しくてイスラームと合わない習慣だらけの日本でムリだし、そもそもやる意味あるの?』そんな声が聞こえてきそうだ。
至極もっともな意見である。
話をもう一度戻してムスリムである最低条件『アッラーのほかに崇拝に値するものなし、ムハンマドはアッラーの使徒である』と言う信仰告白の言葉の意味を考えてみよう。
『アッラーのほかに崇拝に値するものなし』
というのは、アッラーのみを崇拝することによって他の全てのものかた自由になれるという意味である。
国家も会社も、世の中の流行も、世間体も、先輩や教師や上司も、すべてを創造したアッラーの前では全く無力である。
尊敬はしても崇拝するのには値しない。
アッラーだけが完璧でそれ以外は不完全な存在である。
どんなに立派に見えても人間には必ず欠点や短所がある。
アッラー以外のものには全て終わりがある。
そのことをはっきり認識しているだけでも随分と心が楽になるはずだ。
精神的な自由を得るのだ。
次にイスラームのもう一つの根幹である『ムハンマドはアッラーの使徒である』について説明しよう。
使徒とはアッラーから経典を授かった預言者であり、預言者とはアッラーの言葉を人々に伝える者である。
つまりムハンマド(彼の上に平安あれ)は人間であり、崇拝の対象ではない。
でも彼がいなければ我々はアッラーについてもイスラームについても知ることができないし、実践の仕方も分からない。
だから『ムハンマドはアッラーの使徒である』との文言が必要になるのである。
つまり、アッラーが何なのか? 何を信じ、何を実践すればよいのか、すべてムハンマド(彼の上に平安あれ)によって伝えられているのである。
ではイスラームの最終目標とは?
それは死後楽園に入れてもらうことである。
イスラームの重要な信仰箇条のひとつに来世、つまり天国と地獄がある。
アッラーを信じ、善行や崇拝行為を行うことでアッラーの御慈悲により来世で救済されることである。
話が脱線するので、来世についての説明は今回はここまでにする。
『じゃあ、結局礼拝も斎戒もやらなきゃいけないんじゃん。大変そう』
そう思われるかも知れない。
結論から言えばそういう事になる。
でも心配することなかれ。
赤ちゃんが初めから歩くことができないように最初から礼拝や斎戒を完遂できないのは当たり前。
一日一回から始めればいいし、食べ物やその他の禁忌もいきなり全部やめる必要はない。
例えばお酒が好きなひとは量を減らすところから始めればいい。
現世ではすべての束縛から自由になることと、来世では楽園に入れていただくという最終目標が助けになるはずだ。
السلام عليكم
あなたに平安あれ。
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