イスラームと他宗教の共存、共生は不干渉が原則。

イスラームは布教には消極的!?

新興宗教のバッシングのニュースが巷を騒がせている。

強引な勧誘や騙して引き込む布教活動の手口だ。

僕もご多分に漏れずこの手の勧誘はするのもされるのも大嫌いだ。

別に何を信じようと自由だと思う。次のことさえしなければ

 

1) 他人に押し付けることや、教祖や教団の神格化、詐欺まがいの行為や信徒から金を巻き上げること。

2) 当然罪のない人々を殺めるテロ行為などもってのほかだ。

 

僕自身はムスリムだけど、興味のない相手にイスラームを押し付けることや、強引な勧誘をするような真似はしたくないし、そもそもイスラームはそのような事を推奨してはいない。

本気で自分から求めて来る人以外相手にしない主義である。

確かにイスラームアッラーのみを崇拝することとムハンマド(彼に平安あれ)を預言者であり、アッラー使徒である事を証言するよう説く。

しかしそれは必ずしも他の宗教の存在を否定するものではない。

礼拝や斎戒などの行いは、上記の大原則を受け容れた者だけに課されるが、アッラー以外、誰もそれを強制することはできない。

当然ながら、その原則を受け容れていないノンムスリムにたいしてはその義務は課されない。

 

ではなぜ僕はこのブログでイスラームについて語るのか? 

 

理由はふたつある

1) ひとつは、相手が受け容れるか受け容れないかに関わらず、アッラー以外に崇拝に値するものがないことと、ムハンマドアッラー使徒であると公言するためである。

相手が受け入れるか否かは相手次第であって結果はどうあれ僕自身の義務と責任はそれを伝えることだけである。

決して勧誘ではない。

2) 第2に、イスラームが僕のアイデンティティそのものであり、僕自身について語るうえで避けて通れないものだからである。

 

僕がやっている事すべてがイスラーム的かというと、必ずしもそうではない。

しかし、善悪や行動の基準の根幹はイスラームに基づいていると思っている。

 

宗教は紛争の原因か!?

今は紛争の坩堝と化しているイスラーム世界だが、これはイスラームのせいではなくて反イスラーム的なナショナリズム国民国家のシステムと独裁政権のせいだ。

では近代以前のイスラーム世界はどうだったのかというと、キリスト教ユダヤ教ヒンドゥー教仏教徒も多く抱えていたが

こうした宗教対立は殆どなかった。

ムスリムとノンムスリムが完全に平等ではなかったとはいえ、異教徒は庇護民として保護され、むしろ共存して仲良くやっていたのである。

その根底となる原則が不干渉だったのである。

お互いに相手の価値観や行動に干渉しないこと。

 

これが共存の大原則である。

 

今ではありがたい事に日本でもイスラームへの理解が進んできたが、以前は『郷に入れば郷に従え』の論理でもってムスリムに礼拝や斎戒についてケチをつけたり、酒をすすめるなど、非イスラーム的な行動を強いたりする日本人も確かに居た。

日本も多文化共生社会になりつつある。外国人ムスリムも日本人ムスリムも日本の文化や慣習を尊重しなければならない代わりに多数派である日本人もムスリムをはじめとする少数派の立場を尊重してほしいものである。

ここでいう尊重とは、必ずしも相手の慣習に迎合して同じことをしろという意味ではない。

むしろ、そんな事しなくてもいいから相手のすることにお互い干渉しないことである。