日本語の持つ神の意味
最近は何でもかんでも、凄い人の事を軽く『神』と呼ぶ。ムスリムの僕から見れば非常に理解し難い事だ。
そもそも、日本語の持つ『神』は『人知を超えたもの』、『とてつもなく凄いもの』という意味である。
だから、自然にせよ、精霊や妖怪、時には人間でさえ神になってしまうのである。
つまり、日本人にとっての神はこの空間のなかに存在する隣人のような存在である。
では人間と神との関係はどうか?
時には畏敬の念を表し、時には客人のようにもてなし、あるときには無関心。
イスラームのような絶対的な主従関係や契約の概念はない。
アッラーを神と訳すのは正しいのか?
ではイスラームではどうだろうか? イスラームではアッラーは日本語でいう『神』とは全く性質が異なる。
アッラーは次のような性質を持つ
1) 全知全能で完全無欠。唯一の存在始まりも終わりもない
2) 空間に存在する全てのものを創造
3) 空間や時間を支配し、全てを超越するので空間や時間の拘束を受けない
こういう意味からすれば、アッラーに日本語の神という訳を当てるのは適切ではない事が分かる。
実はキリスト教やユダヤ教もアッラーを信仰しているのである。アラブ圏に古くから存在するキリスト教諸派もアッラーの名を唱える。
16世紀に日本にキリスト教が伝わってきたとき、アッラーはラテン語の『デウス』または『天主』という訳語が使われ、神とは呼ばれなかった。
また、中国のムスリム『回族』は『真主』という訳語を使う。
どちらもより本来の意味に近い。
そもそも、Godを神と訳したのは、幕末から明治初期にかけて来日した宣教師、ジェームズ·カーチス·ヘボン。ヘボン式ローマ字の考案者である。
そのことから混乱が生じた。

存在者は崇拝の対象とはならない。
イスラームではアッラー以外のものを崇拝することは厳禁されている。
そう聞くといかにも不寛容なイメージがあるがそうではない。
言い換えれば、この世界に存在するいかなるモノをも絶対視して崇拝してはならない。
もっと言うなら被造物に隷属してはならないと説くのである。
人や動物の形をした像だけでなく、特定の人物や組織を崇拝し、絶対視することも偶像崇拝である。
では、日本で神とされる妖精や精霊や妖怪はどういう扱いを受けるのだろうか?
それらはジンと呼ばれ、アッラーの被造物であるとされている。
存在自体は認めているが、崇拝の対象とはならないだけである。
参考文献

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